理解しない関係
- 2014年02月21日(金) 文:sakulla
- 仏声人語
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先日、お世話になった教授の最終講義を聴講するため、久しぶりに母校の大学へ行ってきた。
そこで、やはり久しぶりの同期の友人に会った。
彼女と出会ったのは、同校の仏教学科の推薦入試の朝のこと。
開門を待つ列で前後に並んだことが縁の始まりだった。
そのとき彼女が読んでいたのは『浄土の本』。
制服を着た女子高生がその本を読みこんでる姿を目の当たりにし、仏教が何たるかを学ぶ前の私は「こりゃ落ちる」と直感した。
案の定というべきか、仏教の小論文問題につまづいた私の桜は散った。
その後、一般入試で入学したのだが、新入生ガイダンスの教室で何気無く座った席の隣にいたのが彼女であり、その縁が未だに続いているというわけである。
私の経験による偏見によれば、母校の仏教学科の学生で実家がお寺でない女子は、どこか風変わりな性格の持ち主が多い。
彼女はその際たるもので、それ以上の人がいれば人外であると言っても過言ではないと思っている。
出会った頃の彼女の野望は坊守(浄土真宗のお寺の住職の奥さん)になることで、それを成し遂げる努力を惜しまない姿に感嘆した。
が、何を間違ったのか今では大黒さん(真言宗のお寺の住職の奥さん)に治まっているから人生は分からない。
そして出産してなお勉学を志し、得度し山で修行し、母校の宗門コースに学部入学し直し、春からは院生になるという。
彼女の飛躍はとどまることを知らないから恐ろしい。
一番恐ろしかったのは、本当に飛躍したいからという理由で、33歳からフィギュアスケートを習い始めたことだろうか。
「だって飛びたいんだもん」と言われたとき、「お前の人生は既にぶっ飛んでるから、これ以上飛ぶんじゃない」という私のツッコミは、友人たちから今でも称賛を浴びている。
話していても「そうだよね」という同意よりも「そうなのか?」というツッコミのほうが圧倒的に多い彼女を、理解しようとしたことは一度もない。
逆に人でいたいなら理解してはいけないとも思っている。
ただ「価値観とは多様にあるものだ」いう当たり前のことを、当たり前に思えなかった私にとって、固定概念を打ち砕き続ける彼女の存在は特別だった。
彼女を否定も肯定もすることなく受け入れることによって、自分の許容力の素晴らしさを自画自賛することも確かにある。
だがそれ以上に、今だ変わらず友情を持ち続けているという事実が、互いに理解し合うことが必ずしも重要ではないのだということを教えてくれているようで嬉しくなる。
理解し合えなくてもいい。
ただ、相手を大切に思う気持ちさえあればいい。
彼女が私を思い出したとき、笑顔になってくれればそれでいい。
思い出だけでも笑わせてくれる彼女は、確かに私と寄り添ってくれているから。
それにしても、久しぶりに会った彼女は相変わらずだった。
9月には2児の母になるらしい。
………え? 4月から院生になるんだったんじゃ?
いや、考えちゃダメだ。
「おめでとう」だけでオッケーだ。





