「どうせわからないだろう?」に寄り添う

 もうすぐ、3回目の3・11がやってきます。

この3年間を振り返り、被災・避難移住した方々と毎日を過ごすことになった日々を思います。

私は「支援者」なのかな?と思うことがよくあります。
「経営者」ではあります。「代表者」でもあります。
でも、それは、ある意味役割分担です。

私たちがやってきたことは、「一緒にやろうよ」です。
一方的にしてあげることではなかったはず…です。

なので、「こんなことあったらいいのにな」を実現した時、最初の言いだしっぺである人には、それ相応の責任を感じてもらうことになります。
だからこそ、「一緒にやろうよ」が生きてくる。

対極にあるのが、「どうせわかってもらえない」です。

そりゃ、わからないです。
だけど、それを言ってはおしまいです。

言いたくなる気持ちを分かってんのか!とお叱りを受けるかもしれませんが、たとえそうだとしても、その言葉は、言ってはならない言葉だと思っています。

それは、双方の溝を徹底的に深める言葉です。
そして、強い拒絶だけではなく、とても強い攻撃的な意味を持ちます。

言わせたほうが悪い場合もあると思います。もちろんそれはあるでしょう。
だから、言ったほうもさらに傷つく。
言われたほうも、とても傷つく。

そう、その言葉に、問題の理由を見出してしまうことは、溝を深めこそすれ、何も前には進まないのです。


「あなたには、私の気持ちはわからない」
それは、当然のこと。
だから、それが、ものごとがうまくいかない理由ではないのです。

理由は、ほかのところにある。
それを見つめる勇気こそを、お互いに取り戻さないといけないのではないでしょうか。
その取り戻す過程を、私はやっぱり「一緒にやろうよ」と思うのです。

「どうせわかってもらえない、わからんだろう?」の裏側には、「本当はわかってほしい」が隠れているんですよね。


私は5年ほど、不妊で悩んでいました。
流産も経験しました。
その時の私は、「どうせわかってもらえない」の塊でした。
だけど、様々な立場の人と会い、いろんな人生に触れ、自分の偏狭さと向き合うことで、だんだんと自分の枠を広げてもらえた気がしています。

そして、あとでわかったことがあります。
偏狭な私の愚痴や恨みつらみを、ただ黙って聞いてくれたひとがいたこと。
アドバイスや助言という形を取らずに、気の済むまで付き合ってくれた人がいたこと。
あの時は間違ってたわ、と言った私を、また何も言わずに許してくれた人がいたこと。
寄り添うとは、そういうことだったんだろうと思います。


どんなことを言われても、そこまでの覚悟が、自分にはあるか?
寄り添う、という言葉の重みを、ずっしりと感じる、3月です。

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