メリシャカLIVE2013の質問にメンバーが答える その2「中心」


皆さんメリシャカ!
今日はメリシャカデイですよ。4月8日、お釈迦様、ご誕生下さりありがとうございます。
尊いいのちのつながりをお伝え下さってありがとうございます。 



前回からメリシャカLIVE2013に頂いた質問をメンバーが答えさせて頂いています。


質問

「自分は、意思が弱く、やらなくてはいけない事を後回しにしてしまいます。どうしたらよいでしょうか?」

「自分に甘いです。自分を律することができずに悶々としてしまいます、、、」

「つながりたいのに、つながるのが面倒。一人ぼっちは嫌なのにしょっちゅう一人行動をしてしまう。相手を思いやりたいのに自分の損得の為に動いているのではないかと疑ってしまったり、行動できない自分に苛立ち、また一人になってしまいます。私のことを愛してくれる人さえ疑ってしまい、まだ結婚できずにいます、、、。」


答え

メリシャカLIVEに御参加下さり、質問をして下さって嬉しいです。ありがとうございます。

想像しますに、メリシャカLIVEで思いきってして下さった質問だと思います。読ませて頂き、実は自分の胸の内を代わりに語って下さったようなずきっとした感覚がありました。本当はアジカンの後藤さん、釈先生、木下さんにお答えいただけたら良いのですが、僕も自分の事として考えてみました。

以前、友人のお坊さんの法話で聞いた「ぼくの中心」という小学3年生男子の作文があります。ちょっと内容が正確ではないかもしれないのですが、、

「ぼくの中心」

ぼくの中心はなんだろうとぼくはたくさんかんがえたら、なんとぼくには中心がないときがついた。
どうしてかというと、いつも、かんがえていることと、していることがちがったり、あれをやろうとおもっても、ちがうことをしているからだ。あと、しっぱいしてもまた同じことをしてしまい、ふらふらしているからだ。

ぼくのいえの中心は、しょくりょう、テレビ、こたつなのだと思う。どうしてかというと、ごはん前までは、みんなバラバラだけど、ごはんになるとみんなよってくる。テレビのばあいは、ごはんの後、テレビつけているとみんなそのままで、テレビつけないでいると自分のへやに入ったりおふろに入ったりして、またバラバラになってしまうからだ。こたつのばあいは、夏にはないけど、帰ってくると、みんなさとうを見つけたアリみたいにこたつに入りこんでくる。
だから、ぼくのいえはまともなものではつながっていないのだと、ぼくはしみじみ思う。

という作文なんです。いかがでしょうか。正直僕は、この小学3年生の子はお釈迦様じゃなかろうか?と思うほどびっくりし、感動してしまったのです。
「なんとぼくには中心がないときがついた」というのは、すべてのものに確たるもの、主体となる「我」があるわけではないということ、それはお釈迦様のおっしゃる『諸法無我』で、これを自分でよくよく考えて見出したとはただものではないです!!

しかし、本当にそうですね。僕は35歳になっても「かんがえていることと、していることがちが」います。この時間に食べたら健康にいけないという甘いものを、今もついつい口にしてしまう。寝てはいけないという、研修中に寝てしまうし、明日は大切な行事があるから、寝ておかないとという時に限って眠られないでいます。
質問にある「やらなくてはいけない事を後回しにしてしまいます」「自分を律することができずに悶々としてしまいます」「つながりたいのに、つながるのが面倒。一人ぼっちは嫌なのにしょっちゅう一人行動をしてしまう」というのも同じ感覚なのではないでしょうか。

「しっぱいしてもまた同じことをしてしまい、ふらふらしているからだ」
ささいなことで家族で喧嘩をしてしまい、もう懲りたはずなのに、またしばらくすると折に触れ相手を攻撃してしまう。言ってはいけないことを言い、一番傷つけたくない人を傷つける。大人になったところで、軸がブレずにいるということはない、いつもブレブレです。

この作文を読んで、この小学3年生の男の子は、実に自分と向き合って深く自分を見つめていると同時に、どこか自分を客観視している中にユーモアと大らかさを感じるのは、「実は自分には中心はなかったんだ」という気付きではないかと思うようになりました。

自分の中に中心があると思うことが、苦悩を生むのでしょう。何処かに確固たる自分がいて、その自分を見つけたら物事を上手くいかせること、相手とうまく付き合うことができると思う。
いつかあるべき自分になれると思ってしまう。その自分中心の思いこそが諸悪の根源。
それが「あるべき自分」と「現実の自分」のズレを生み、自らイライラしたり、深く落ち込んでいってしまうようです。

作文は後半になると、「ぼくの中心」から、「ぼくのいえの中心」に移ります。面白いですね。食料、テレビ、こたつ。その理由はするどい観察力によって描かれています。炬燵に砂糖を見つけたアリみたいに集まってくるという表現力すごすぎです(笑)

ところで、話は変わりますが、私の住むお寺の中心はどこかと考えましたら、やはり本堂にいらっしゃる御本尊の阿弥陀さまです。
皆さんのお家でもお仏壇がある御家庭では、家の中心は無意識のうちにお仏壇と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?最近失われつつある習慣ですが、頂き物をしたら、必ずまず最初にお仏壇にお供えをする。毎朝、何よりも仏さまへ手を合わすことを第一とする習慣があります。

この御本尊の阿弥陀さまはどのような仏様かというと不思議なことに、「あなたを救うことが私の中心、第一なんですよ。だから、どのようなあなたであっても、私はともにいます」と願い誓われる仏様と親鸞聖人はお伝え下さっています。

自分の中に中心がないのにあると勘違いして、自ら苦しみ悲しむ、しかもそのことから逃れられない僕です。だから、どうしようもなく打ちひしがれたり、こんな自分は生きてて甲斐がないと思ってしまう。しかし、そのような僕とともにあることを中心として下さったかたがおられる。

そのはたらきに気付かせてもらうのがお寺やお仏壇という仏さまに会う場所じゃないかと、最近思うわけです。
もっと言いますと、阿弥陀さまという中心が、中心の方から、僕のことが第一だと、僕のところまで居たり届いたのが「南無阿弥陀仏」という僕の口からこぼれるお念仏です。決してみすてない、いのちをつつむはたらきです。

今回うまく質問に答えられなかったと思い申し訳ないのですが、そのような阿弥陀さまの中心、大きな心に僕たちが丸ごとあるがまま包まれる中で、相手との繋がりを尊く感じられたり、思うようにならない自分を少しだけ抱きしめることができるように思い、お伝えしたかったのです。
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