メリシャカLIVE2013の質問にメンバーが答える その3
- 2014年04月11日(金) 文:kenyou
- 仏声人語
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皆さんメリシャカ!今月4月8日はお釈迦さまの誕生日をお祝いする「花まつり」でしたね。花まつりをもっと盛り上げたい!という思いで始まったこのメリシャカ、今月は「メリシャカLIVE 2013」でいただいたご質問にいっております。
今回お答えさせていただく質問は、
・前世ってあるの?
・日本人の多くに宗教って必要に思えません。思えますか?
・私は前世や来世、あの世や天国、地獄も信じてません。死後はただただ無いと思っています。それゆえ無宗教です。出演者の方はどう思われてますか?
・仏教が必要な理由とは何ですか?
この4つです。それでははりきってまいりましょう!
さて、この4つのご質問に対してお答えするときに、私は「ナラティブ」という言葉がキーワードになると考えています。これは仏教の言葉ではありませんが、英語で「物語」とか「説話」という意味のある言葉だそうです。メリシャカLIVEでも登壇いただいた釈徹宗先生は、この「ナラティブ」を「かけがえのない物語」と訳されておられました。
私たち人間は宗教が無くても、仏教がなくても、その「生」を続けていくことは可能です。空気や水、エネルギーとなる食べ物のように、生命を維持するために必要不可欠な要素ではありません。しかし、空気や水や食べ物など、生命維持に必要な物だけを求めて生きているのであれば、それは動物と何ら変わりありません。生命維持には必要なくても、私たちが人間として、人間らしく生きるためには、ナラティブ、物語が必要であると思います。その物語というのは、例えば日本人であれば、日本人である、という物語が必要となります。これは国籍などといった法制度上の話ではなく、精神性の物語です。日本人だと思っている人には、必ず日本人であるという物語が根底にあります。私たちはそれを無意識に共有して生きています。
「宗教」というものも、私はどんな「ナラティブ」、物語を受け取っているか、ということであると私は思います。キリスト教という物語、イスラム教という物語、仏教という物語、あるいは自分はどの宗教も信仰していない無宗教という物語、いろいろな物語を受け取って、私たちは生きています。また、無宗教と言いつつ、現代日本人は神社に初詣に行ったり、お盆にお墓参りをしたり、クリスマスを祝ったり、豆まきをしたり恵方巻きを齧ったり、実はかなり宗教儀礼に参加しています。日本の習慣や風習には、宗教儀礼が宗教儀礼として意識されないほど根付いている部分があり、本当の無宗教という物語を選択している人は少ないことでしょう。
それでは宗教の語る物語とは一体なんなのか。それは「死」と「生」にまつわる物語です。この2つを語らない宗教はないでしょうし、生と死を考えることから宗教は始まるものであると思います。無宗教、というのも、特定の宗教団体に所属していなくとも、なんらかの「生」と「死」にまつわる物語をもっているのではないでしょうか。「死後は無である」というのも、立派なナラティブです。
では、仏教の「生」と「死」にまつわるナラティブとはどんなものでしょうか。これはなかなかに難しいものでありますが、一つは「解脱」ということです。解脱というのは、「輪廻」という命の経巡りから離脱すると言えばよいでしょうか。仏教では「生老病死」を苦と捉えます。ですから、生まれ変わることはまた死を迎えることに繋がり、死はまた生まれることに繋がるという「輪廻」もまた、苦が続くことであると考えます。そこから離れるのが「解脱」ということです。
では「解脱」=「無」なのでしょうか。私はそうは思いません。何故ならば、仏教は「縁起」を説く教えだからです。「縁起」というのは、全てのものは互いに繋がり、影響しあっているということです。例えば、私が明日死ぬとしましょう。私という一人の人間の人生はそこで終わります。けれど、この世界自体が終わるわけではありません。私から見た世界は無くなりますが、世界は連綿と続いていきます。そしてその世界には、私が34年と5ヶ月あまり生きていたという影響力が残り続けます。私の子どもや、妻、私と関わった多くの人に、私が34年存在していたという影響力が、少なからず伝わり、その人達を形成しています。そしてそれは、間接的に次々と、空間軸と時間軸を、池に石を落とした時の波紋のように広がっていくのではないでしょうか。「私」という一人の人間という形から離れて物事を見れば、私の存在は個としての形が終わっても、どんどんと広がっていく。そのように考えることができると思います。逆に、私の今を思えば、遥かな過去から、様々な条件が折り重なって、私の「今ここ」が形作られている。私もまた縁起によって成り立つ存在ですし、私の前に何も無かったとは、とても言えません。
浄土真宗では、阿弥陀仏という仏さまの願いとはたらきによって、「南無阿弥陀仏」というお念仏をいただいたものは、必ず「仏」と成らせていただけるというナラティブがあります。さきほどの「解脱」とは、「仏」に成ることと同義です。死によって「無」になるのではなく、「仏」と成る。こう受け取っていくのが、浄土教という仏教の特徴であるでしょう。
そしてこのような「死」と「生」にまつわるナラティブを持つということは、生き方に大きく関わってくるものだと思います。死ねば無になるという物語を選択すると、無になるならどう生きても同じだと、刹那的になったり、自暴自棄な生き方をしてしまいかねません。しかし、死は終わりではなく、何らかの形で続くというナラティブを選択したならば、悪いことをすれば、その影響力がずっと残り続けるということも見えてくるでしょう。そうであれば、なるべく悪い行いはしないようにというブレーキがかかるはずです。あるいは、全てが無に帰すならば、私たちの人生は無価値で、虚しいものになってしまいます。しかし、私のいのちが、実は仏さまに成らせていただくためにあったとしたら、このいのちが、光り輝くものになるのではないでしょうか。
宗教というもの、仏教という教えが必要なのは、私はここにあると感じています。そしてまたそのナラティブによって、私たちの命や人生も、より豊かで、意味深いものになっていくのです。
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