メリシャカLIVE2013の質問にメンバーが答える その4

【質問】 

お寺に行っても、写経をしても、その帰り道で煩悩がふつふつと湧いてしまいます。
心の清い人間になるにはどうしたらよいでしょうか?


【回答】

いきなりだが、私の中での三蔵法師は夏目雅子だ。

ドラマ化された西遊記なら、私の世代的には本木雅弘・宮沢りえペアか、唐沢寿明・牧瀬里穂ペアだろう。(香取慎吾は除外)
だが、あの珍獣…ではなく妖怪たちの中で、凛と咲く一輪の花のような夏目雅子の静謐な美しさを私は忘れることができない。

なぜこんなことを書くのかというと、心の清い人間ということで思い出したのが、彼女の演じた三蔵法師だったからである。



三蔵法師とは仏典を三分類した経蔵・律蔵・論蔵のすべてに通じた僧侶への尊称である。
西遊記に登場する玄奘(げんじょう)三蔵は、同名の実在した中国の僧侶がモデルとなっている。
この物語は、その実在の玄奘と同様に中国からインドへ向かう行程が描かれつつも、妖怪退治とリンクさせた娯楽性の高い二次創作作品と言えるだろう。

さて、僧侶としては超絶エリートだった三蔵法師は、あらゆる媒体において慈悲深い心清らかな人物として描かれる。

善人と思われる者にも、悪人と思われる者にも、誰ひとり疑うことなく手を差し伸べて助けようとする三蔵法師。
何度騙され、酷い仕打ちに合おうとも、差し伸べる手を引っ込めはしなかった。

人を信じ続けるその姿に「バカ正直」と思いつつも、あれが僧侶らしい生き方だと感銘を受ける人も少なくなかっただろうし、小さな私もその一人であったわけだけだ。

しかし、鄭永漢著の『西遊記』にあった孫悟空のセリフが、そんな私の頭をカチ割った。


「お師匠さま、あなたは慈悲という目ヤニで、目が曇ってらっしゃるんだ」


その言葉に、目ヤニじゃなくて、ウロコが落ちたような思いがした。

人は何を見ようと何に触れようと、自身の経験や伝え聞いた他人の経験から生じた価値観と、その価値観から生じた個人的な思いで、それらを判断をしてしまうものだ。

見たもの、触れたもの、それらの「そのまま」を見たり触れたりすることは適わない。
そこには必ず、我見が混ざる。
それは、私に傾いた思いで曇った目で、世界を見るようなものだろう。

だから、例えその目を覆うものが【慈悲】という思いであろうとも、真実を見えなくさせることもあるし、歪めてしまう現実もある。

そう思って三蔵法師を見れば、そこには事実を見ようとしない、目の曇った凡夫の姿はなかっただろうか。
私が思い違いをしていただけで、彼は仏ではなくただの人間なのである。

人間である以上、煩悩は必ずある。
あるからこそ偏りが生じるのだ。

写経も座禅も、その目的は心の清い人間になることではない。
何をしようと、静めることも拭い去ることもできない煩悩とともにある己自身を自覚していくこと、見据えていくことではないだろうか。

何より怖いのは、一瞬でも心が清くなったという我見に陥ることである。

少なくともあなたは己の煩悩を自覚している。
その自覚を持ち続けることで、あなたが思い描くような心清らかな人間になることは難しくとも、自他を顧みることのできる思いやりが生じてきたとしたら、それはそれで素敵なことではないだろうか。

ちなみに私の沙悟浄は岸部四郎である。
彼がベストでオンリーだ。


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