菩薩犬
- 2014年07月12日(土) 文:しょーしん
- 仏声人語
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最近『赤光』という法話集を買いました。
仏教の本というのは「難解で深い」か「わかりやすいけど浅い」かのどちらかが多く、わかりやすくて深い本は珍しいのですが、この本はわかりやすくて深い本だなと思います。
菩薩についてこんなことが書いてありました。
菩薩というのは、他を利益することにためらわないもののことで、他の命のために自分を捨てられるもののことで、それが現代社会で出来ている一つの例は盲導犬だ、というようなことです。
盲導犬になるような大型犬は、小型犬に比べても寿命が短いのです。
10年ほどの命の中で、成犬になるまでは他者のための訓練をして生き、そこからは他者の目になるために生きる。
もちろん例であって、盲導犬が完全な菩薩であるというわけではありませんが、彼らは主人と生きることだけを見返りに主人の目となるのだから、とても菩薩的な例でしょう。
反して私達はどうでしょうか。
何かをするにも常に見返りを期待して生きています。
この行為の見返りはこれだけはあるだろうと想像し、それを下回れば怒り、上回れば媚びるようになるのが人の姿です。
犬というのは畜生です。
仏教で言う畜生界に生きるものとは、理性無く、自らの欲望に振り回される存在であり、人に使われることの苦しみをかかえるものです。
しかし、理性を持っている気になりがらも、欲望には打ち勝てず、それに基づく見返りに振り回され、それによって人に使役される構造を生んでいるのは人間なのではないでしょうか。
人は、盲導犬を人のために使役していると思っていますが、彼らははたして使役されていると思っているのでしょうか。
主人の目になることが彼らにとっての喜びなのであれば、彼らは畜生の肉体を持っていても、畜生界に住んでいるとはいえないのかもしれません。
本当に畜生界に落ちているのは、彼らでは無く、私なのかもしれないな、と『赤光』を読みながら一人思ったのでした。
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『赤光 しゃっこう 寺からのたより』福間義朝 探求社
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