1月の読書感想文 『東京喰種』
- 2015年01月22日(木) 文:sakulla
- 仏声人語
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去年のこと、ママ友から面白い深夜アニメがあるから見てみてと勧められたので見ることにした。
正直、同年代の女性からアニメを勧められることなんて滅多にない、というかママ友からは初めてだった。
はて、どんなもんかと思って楽しみにしていたのだが……。
『東京喰種トーキョーグール』(http://www.marv.jp/special/tokyoghoul/)
グロかった。とてつもなくグロかった。
コレ地上波で放送しちゃっていいの?ってくらいグロかった。
そして、こういうのを紹介されちゃうカテゴリに自分が入っちゃったことに思わず笑ってしまった。
だが、結果的に放送分は全てみたうえ、続き部分は原作漫画(http://youngjump.jp/tokyoghoul/)をTSUTAYAで大人借りして網羅するほど面白かったのだから、友人に感謝である。
最近は人間が捕食される側になるマンガが進撃傾向にあるのか、この『東京喰種』もそういった内容ではある。
ただ進撃方向は違い、捕食する側のグールもまた外見上は人間と変わらず、なかには社会と溶け込み生活している者も少なくない。
その一方で過激かつ苛虐的な捕食をする者も多く、結果全てのグールが駆逐の対象となっている世界観の中で物語が進んでいく。
仏教で人喰いと言えば『羅刹と雪山童子』の話が有名だ。
昔、インドに雪山童子(せっせんどうじ)という求道者がいた。
あるとき、雪山童子はどこからともなく聞こえてきた声に驚く。
それは彼が長いこと求め続けていた真理への教えだったからだ。
周囲を見渡すと、恐ろしい形相の羅刹(鬼)しかいなかった。
雪山童子は羅刹に言葉の続きを請うが、「腹が減っているから説く力もない」と断られてしまう。
すると雪山童子は、人肉を好む羅刹のために、自らの身体を差し出すことを提案し、続きの言葉を聞くと自らの血で岩肌や木に書き留めたのち、高い木から身を投げる。すると、羅刹は元の姿である帝釈天に変化し、雪山童子を救いあげると、後生での教化を願い平伏した。
周囲を見渡すと、恐ろしい形相の羅刹(鬼)しかいなかった。
雪山童子は羅刹に言葉の続きを請うが、「腹が減っているから説く力もない」と断られてしまう。
すると雪山童子は、人肉を好む羅刹のために、自らの身体を差し出すことを提案し、続きの言葉を聞くと自らの血で岩肌や木に書き留めたのち、高い木から身を投げる。すると、羅刹は元の姿である帝釈天に変化し、雪山童子を救いあげると、後生での教化を願い平伏した。
この雪山童子こそ、お釈迦さまの前世のお一人であったというお話である。(『涅槃経』より)
ここで羅刹が説いた言葉は『無常偈』とも『雪山偈』とも言われている。
諸行無常 (この世にあるものすべては移ろいゆき、変わらぬものは何もない)
是生滅法 (生じたものは必ず滅していくことが世の道理である。)
生滅滅已 (生じては滅びる、そのとらわれを滅しつくすことで)
寂滅為楽 (心が静まり安らぎとなる)
これを読んでも身近感じることはないだろうが、この『無常偈』を意訳したものが『いろは歌』だと聞けば、少しばかりは近づくだろうか。
人間の理とは大きく逸脱しているグールも、無常の理からは逃れることはできないようで、良くも悪くも移ろい変化を繰り返す。
人間は血を吸う蚊だって叩かずにはいられないのだから、人を殺し肉を喰うグールを駆逐せずにはいられないのは当然だ。
そのグールを前にして、雪山童子のように我が身を差し出してまで求めるものがあるとすれば、たぶん我が子の命くらいだろう。
だが、我が子の生死にとらわれている時点で、雪山童子の行いとの大きな隔たりが見えてくる。
生じては滅する、生も死も変えることのできない無常の理。
変化を厭い、その一つでしかない死を受け入れず、あるはずもない不変を望むがゆえに苦しみが生じる。
そのとらわれから離れたところに安寧があるとは知りつつも、捨て去ることのできない執着が、今の私を支えているのもまた事実。
その執着を人間だけでなくグールも持つがゆえに、両者の争いは終わらない。
だから、その争いの先にあるであろう執着の姿を、最後まで見届けたいと思った。
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