笑っちゃおう!

「ちょっといい話」と考えてみても中々思いつかない。
僕の思考回路が、ちょっと良い事と悪い事と思ってしまっているからだろう。

今、お彼岸の時期ということもあり、お寺の仕事で何かと忙しい思いをしたりします。
「忙しい」、心を亡くすとは よく出来た漢字だなぁ。

いえねぇ、自分の都合をどうしても優先させて、相手に無理を聞いてもらっています(お彼岸参りで)。(反省)

だからこそ、満面の笑みを浮かべてご挨拶。(作戦でもありますが・・・)
すると笑顔で返してくれます。

笑顔は大切です。フワっと暖かい気分になります。

今までの僕の素行が帳消しになったような・・・それは、無理、無理。

しかしながら、会話がスムーズになりますね。
楽しいひと時を送れます。

そのときのお茶が、これまた美味い。

「和顔愛語」とは、善意の心で優しい笑顔で接し、優しい言葉をかけることです。
簡単そうで難しいと思います。
ついつい相手のことを思えなくて、言葉が足らなかったり・・・忘れてたり・・・。

でも、笑えるときには笑いましょう!お腹いっぱい!!
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ちょっといい話

メリシャカコラムリレー、今回の御題は「ちょっといい話」です。

○自分よりも相手を大切にできたら素敵ではないか?

なかなかできないが、仏教を学んでいく中で、時々思うことがあります。
自分のことよりも相手を大切にできたら、きっと僕はもっと幸せなのだろうかな。
めったにできるものじゃないけれど。

今日、京都でおぼうさんの研修が終わり、岡山の実家まで新幹線に乗って帰っている時のことです。

ちょうど夕方だったため、乗る人がすごく多くて、イスに座れず友達と二人で立っていました。多分新大阪で座れると思って、混む車内を耐えていました。

座椅子と座椅子の通路には人がいっぱいでした。まるで芋の子を洗ったような!

ギュウギュウ人が詰め込まれた中で、そこに、お弁当やお茶を売っている人が通ってきました。

正直「今来るのか!」と思いましたよ。余計狭くなるじゃん。たぶん通れないと思うよと。

「すみません、通らせてください」と相手に聞こえるようにはっきりと、でも相手を気遣う優しい声で売り子さんはお弁当とお茶を抱えてこっちにきました。

僕は何気なく注目していたら、彼は、お客さんを気遣いながら、限界の限り身体を細めて、歩いていました。

反対の方から、ビジネスマンがトイレに行くのか、携帯電話をかけようとデッキを向かうのかは分からないけれど、さっとこちらに来ようとした時、即座に売り子さんは「こちらにいらっしゃいますか?」とサラリーマンに聞きました。

こちらに来ることが分かると、今までやっとのことで通ってきたこれまでの人の波を、どんどん後退されていったのです。

また、混んでいる中の前進、初めからやり直しです。

でも、サラリーマンを先に通すために、自分がせっかく頑張って来たのに、後ろに下がったその心優しさには、ちょっと頭が下がりました。

人は大勢狭い所でギュウギュウいるものではありません。

疲れのせいもあり、ちょっとイライラしていた僕には、「自分のことよりも相手のことを気遣われる」売り子さんの後ろに下がられた行動が、とてもあたたかく感じたのです。

新大阪の駅で僕はやっと座ることができました。「他の人に取られるな!」と、我先にと座った僕は、売り子さんを思い出して少し恥ずかしくなりました。
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[予定] 瑞泉寺お花見ライブ〜京都慕情

豊臣秀次公ゆかりの京都瑞泉寺で花をテーマにした演奏会&映像上映が下記の通り催されます。
このイベントの中心人物は副住職でイラストレーターの中川学さん。京都育ち、広告業界での経験、僧侶の視点などが見事に融合、ポップでありながらレトロを感じさせるステキな作品を制作されています。
今回のイベントでは、映像作品(右下の絵が動くそうです)のインスタレーションに、ライブでは声明参加とのこと。
要チェックです!


■日:2007/3/25(日)
■時:午後4時開場、5時開演
■会場:瑞泉寺
京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114-1(map
■出演:
[映像]
「桜と高瀬川」ー京都慕情プロジェクト
(中川学・イラスト、坪井健・アニメーション、山口智・音楽)
[LIVE]
中川学(声明・経)
山口智(ハンマーダルシマー)
間所義和(ギター)
■料金:前売2000円/当日2500円
■お問合せ:[email protected]
■主催・企画:京都慕情プロジェクト


【出演者プロフィール】

中川学
京都瑞泉寺(浄土宗西山禅林寺派)副住職兼イラストレーター。現在、京都は三条木屋町の慈舟山瑞泉寺において、仏教・和物・アジア的なものを題材にデジタルでポップに表現することをテーマに作品を制作。05年、ドイツの美術出社TASCHEN発行の、今世界で注目すべきイラストレーターを紹介した本「ILLUSTRATION NOW!」に選ばれ掲載される。
公式サイト:http://www.kobouzu.net/

間所義和/ギター
プログレッシブ・ロックやシャンソンでの活動を経て、1992年HIPHOPユニット「NEWS FROM STREET CONNECTION」(KING RECORD)にギタリスト兼エンジニアとして参加。半野喜弘等、数々のセッションを経て、1997年 GATE IN THE AIR名儀で、「one(FRD-CDOO2)」をリリース。360゜レコードのコンピレーション「circuits brasileiros 2」に参加。2000年平安神宮紅しだれコンサートにナイジェル・ショウ、八木のぶおと共に参加。2000年11月、2ndアルバム「TO FARAWAY(FRD-CDOO9)」を発表。現在sky perfect TV eco channel にて、放映中。

山口智/ハンマーダルシマー
奈良県生まれ。各種アコースティック楽器を手がけながらさまざまな音楽の影響を受け、1987年より西欧の打弦楽器ハンマーダルシマーの演奏に取り組み、独自のスタイルを確立、オリジナル曲、即興演奏を中心に?の独特の美しい音色を生かしたダイナミックで詩情豊かな音楽を作り続ける。ソロの他、様々なミュージシャンとの共演、ダンスやポエトリーリーディング等々他ジャンルとのコラボレーションなど幅広い活動を行っている。

京都慕情プロジェクト
誰もが憧れ、懐かしむ京の風情を詩情あふれる絵とアニメーションと音楽で映し出す、それが京都慕情プロジェクト。
2005年京都にて活動を開始、お寺やカフェなど空間を生かしたライブイベントや展示を行う。
中川学、坪井健、山口智
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肝の座ったレンアイ

こんにちは〜るるです!
久しぶりに恋愛論を書いてみました。

今回は、「肝に据えたいこと」がテーマです。
既婚者目線になってますが、そこはひとつそれぞれの立場で読み替えてくださいね〜
(どうも、今更恋を語るのはイケナイ気がして・・・苦笑)


私の母は、父が出かけるとき、玄関先まで見送っています。
多分、今でもそうしていると思います。
帰ってきたときも、車の音がすると玄関まで出迎えています。

当たり前、と思われるか。さすが九州女、と思われるか。

私にとっては当たり前のことでした。
というより、その意味を考えたこともありませんでした。


でも、私が結婚して、母の行為がけっこう大変だってことに気がつきました。

夫が先に出勤する時、そして私が台所に居て彼が帰ってきた時。
自分がやっていることの手を止めて玄関まで行かなければならないのです。
自分の化粧の最中だろうが、洗い物の最中だろうが。
出勤の時間を見計らうと、トイレにも行けない。
ケンカのあとなら、顔も見たくないってこともあるわけです。

こりゃけっこう大変だと思いました。
行ってらっしゃいを言うくらいなら、狭い家ですからできます。
おかえり、も一言言うだけですから簡単です。

もういいや、声をかけるだけで。
だんだんそうなっていった頃、の話です。


友人と話していたとき、その人が自分の彼女のことをこういったんです。
「自分は、彼女のことを考えると、明日自分が死んでしまって逢えなくなるんじゃないかとか、
彼女に何かあって逢えなくなるんじゃないかと考えて、いてもたってもいられなくなる。
そう思ったら、どんなことでもしてあげようと思うし、ケンカなんかしている暇はない。
だって、このいのちは不確かで、保障なんてどこにもないんだから」


「ラブラブな証拠・・・ごちそうさま」とからかうことも出来ました。
だけど、彼が本当に真剣にそういうから、・・・確かに!と納得したのです。

行ってらっしゃい、と言って送り出した日、彼が帰ってこなかったら?
私が帰れなかったら?
きっと、最後の会話は何だっただろうか、と思い出すでしょう。
その時、笑顔で行ってらっしゃい、行ってきますと言ってたなと思えたなら、
最後の会話は声だけだったとか、何だったか覚えていないとか、
大ケンカしたあとで、罵声をあびせたあとだった・・・とか、
そういう種類の“後悔”はしないんじゃないかな、と思うわけです。


人の気持ちは変わるもの。
どんなに好きで愛していると思っていても、いずれその気持ちは変わります。
なくなるのか、深くなるのか、質が変わるのか、そのへんはイロイロですがね。

でも、「いつかこのひととの別れが来る」ということは、変わりのない真実です。
でも、恋愛中はなかなかそういうことは思えません。
付き合っている人に「いずれ別れは来るものだ」と言ってしまって機嫌を損ねたこと、実はあります。苦笑。
恋は盲目、とは相手の欠点が見えなくなってしまう、と言うことだけじゃなくて、
こういう類の真実が見えなくなることなんだろうなと思うのです。


けど、その真実を肝に据えているとね、不毛なケンカなんかしなくなりますよ、きっと。
大事なことは何か、という気持ちになります。
瑣末なことで腹を立てているのが、もったいないって思います。
行ってらっしゃい、と笑顔で言えることがどれほど幸せでありがたいことか、と感謝したくもなります。

なので、私もどんなに手がふさがっていてもトイレに行きたくても、
玄関先まで行って、行ってらっしゃいと言うようになりました。
お帰り、は最近私のほうが帰りが遅いので、なかなかできませんが・・・

私の父と母が、どんな風に思ってそういう習慣を続けているのかは聞いたことありません。
そして、夫も私の真意は知らないかも。笑。


想像してみることは、少し大事なことかもしれません。


今、大切に思っている人が明日いなくなるかもしれない。
そして、自分自身が明日いなくなるかもしれない。

では、今日、今、やらなければならないことは何か。
今日とも明日ともしれないいのちということを目の当たりにした私たちが、
考えなければならない問題は何なのか。
今日たった今のいのちをどう生きるのか。


仏教の考え方は「諸行無常」(=変わらないものはない)です。
それを諦観(=あきらかに見る)することによって、大事なことが見えてくるのではないかな、と思うわけです。


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「あなたの親友はだれですか…?」 by豪雨

チスイが最近出会い、大変大変お世話になっている岡山のおぼうさん、豪雨さんがメリシャカに寄稿してくれました!

 中学校の時の話、ある年度始め、担任の先生がアンケート用紙を配った。
色んな質問があった… その中で

  
  あなたの親友は誰ですか、三人まで書いてください。
   1、
   2、
   3、


 というような項目。 他の質問には何となく回答したが、ここだけは答えられなかった。

 何でこんな質問をするのだろうか…? と思い、先生に質問すると、緊急時に連絡を取るために親友が分かっていれば、連絡の取りようがあるという。。。

 分かったような分からないような答え、

 困った。焦った。。。  親友って…

 もし、吾輩が親友と思った人が、1〜3の項に吾輩の名前を書いてくれなかったとしたならば、それは本当の親友とは言えないではないか。。。

 そう思った時に、ナンとも情けないやら、悔しいやら、こんな質問をする先生をのろいもした。。。

 挙句、誰の名前を書く勇気もなくて、結局 、1、2、3、の項に三本の線を引いてを埋めた…


 そのアンケートのようなものを提出の後、下校。
後味の悪いアンケートだったな〜と思いつつ、帰宅のため自転車置き場へ行った。。。   一人の友人が、

  友人「おぅ〜おつかれー!」
  吾輩「お疲れさん〜」
  友人「豪雨は今日のアンケート、なんて書いた?」
  吾輩「…沢山書くところあったけど、、、ナニ?」
  友人「親友の名前書くところだよ〜」

  吾輩「・・・おれ、、、三本、線を引いといたよ〜  親友って書いてたし…」
  友人「えぇーッ、なんで、おれの名前書かなかったんだよ!
      おれは、おまえの名前を書いたんだぞ!!!」


 嬉しかった、涙が出るほど、、、というか、ホントに涙が出た。

 はぁ〜 親友ってこういうことだったのか… 
 こっちから、決めてかかることも、思い込むこともいらない、向こうから親友だ!といってくれるもの。。。

 ホントのトモダチなんて… いないさ〜
などと嘯いてた自分が恥ずかしくなり、そいつに申し訳なくなってしまって、泣けてきて、その涙を隠すのに必死になっていた。。。


 お釈迦サマは仏説無量寿経をお説きくださった。 その中、「友」 「親友」 という言葉が出ている。

 「もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす」
 (ボサツは)さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。

 「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」
  教を聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ、わたしのまことの善き友である。

 すること・言うこと・考えること、どれ1つとっても仏さまにほめられるほどのものを持ってはいないこの身、、、
 皮一枚の内側にさまざまな思いを秘めて、その思いを人には知られまいと、戦々恐々としていきていた悲しいこの身、、、

仏サマの教えを聞くと、この身がこのまま、お釈迦サマに「わたしの善き親友だよ」とよびかけられているという。

お釈迦サマに親友といわれるには、申し訳なく、あまりにも恥ずかしい私だけれど、ジーンと暖かいものが、胸の奥の方からあふれてくる気がする。。。



この間、この親友が吾輩の結婚式・披露宴に来てくれたので、
二次会で呑みながらこの話を直接したら、全く覚えてないようだった〜  
それが私には尚のこと嬉しかったのである。
                                  メリシャカ!    
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お友達と人生

はい、お坊さんではない三十児のゲレーロです。

ラカンというフランスの精神分析家は人間は他者との関係によって自分が形成されると考えました。
私がちゃんとラカンの言っていることを理解をしているかどうかは別として、人は一人では生きていけないことには誰も異存はないと思います。
他者とは親、兄弟、親類、恋人、配偶者、子供、先生etc。その他にも人が作り出すモノとしてテレビ、著書、音楽など。その中には友達も間違いなく入ります。
そして家族以外で良くも悪くも最も影響を受けているのが友達ではないかと思うのですが如何でしょうか。年が上だろうが、下だろうが、関係なく。

時々友達をランク付けして、用途でわけている人を見かけます。
あいつは面白いことをしているからいいとか、今は必要ないとか。使える使えないとか。Aという友人と最初に約束していたのに、Bという友人の誘いが面白そうだとAの約束を反故にするとか。
人をツールとしてしか見ていない。平等に接するべきではないでしょうか。

そしていろいろな友人との関係によってどんな自分に熟成されるか?
そう考えると人生楽しいじゃありませんか!
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回るゾウ

♪回るゼ〜回るゼ〜あ〜あ、回るゼ〜






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偏っている鏡

昨年末、10年来の友人が結婚した。

その半年ほど前、友人から結婚の報告を受けたとき、少なからず衝撃が走った。
どれくらいの衝撃かというと、思わず携帯を切って、胸に手を当てて、ショックで心臓が止まっていないか確認するほど。
彼女の友人の誰にとっても、同じくらいの殺人的な破壊力を持つ報告だった。

こういった反応で、彼女という存在の凄まじさを想像していただけたら有り難い。

そんな嵐が起きる前に、いまだ結婚の予定のない共通の友人たちと集まって、自分達に足りないものを考えあっていた。

足りないものは、この人でなけきゃダメという愛。
足りているものは、自分への愛。

前にも書いたが、仏教の愛は、いくらそそいでも満たされず、もっとと求める欲望。
煩悩であり、とらわれる執着でもあるから、原始仏教では歓迎されるものではない。
そして、自分に対する愛もまた、自分にとらわれた「我執」という。

執着とは「とらわれる」ことだけど、きっと「偏る」ことでもあると思う。
偏ると、真っ直ぐにものごとを見ることができない。
見えるものが見えなくなったり、ないものをあるように見てしまったり。

だから本当は執着は手放してしまえればいい。
けれど、その執着が自分の有り様を見せてくれるのも事実。
自分中心の価値観に執われていた自分に気づいて、「これじゃダメだ」と思い直しても、またすぐ自分のエゴでコロコロ変わる曖昧な判断に執われしまっている、どうしようもない自分に気づく。

手放そうとしても、手放せない。
その手放せない執着こそ、ありのままの自分を映す鏡。

けど、相手への愛も自分への愛も、強すぎると、思い通りにならないことを許せなくなって、結局、苦を生むということを忘れてはならない。
ならばどちらにも偏らない道を邁進しようと、未婚の同志を慰め合っていた。


冒頭に戻るが、脈拍が落ち着くのを待って、とりあえず「おめでとう」と言うため、友人に電話を掛け直す。
「幸せになれよ」
動揺を隠して、そう言うと、
「ああ、無理無理。
出会って2ヶ月なのに、親達に外堀埋められちゃって、強制的に結婚だから。
けど、生活に困ることはなさそうだからいいや」

…同志よ、自分たちに足りないものが見つかった。
「愛」じゃなくて「妥協」と「打算」だ。

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トモダチ

ケンショウです。今回のコラムテーマの「友達」について書かせてもらいます。
さてさて、僕の友達を考えてみると今も深くつきあっているのは、やはりその時々の環境が同じだった人が多いですね。
たとえば、中学時代ソフトテニス部(当時は庭球部と言っていた)の同級は今だに地元に帰ると、よく会ってその時のつらかった練習のことなど思い出話をしますし、男女問わずよくうちの寺に顔を出してくれます。
あとなんと言っても大学の友達は、もう一生のツレだなとはよく思います。同じ志をもった全国の若人が共に時を共有することは、高校・中学とはひと味違う付き合いです。

龍谷大学を卒業するときに、仲のよかった同士で記念に輪袈裟(僧侶が首からさげる略式の袈裟)を作りました。内側の片側に、みんなの名前を入れて、その反対側にこんな文章を刻みました。

「一切の梵行の因は善知識なり」

今でも年数回は思い出の京都で飲み会を開いています。
そんな時僕は思います。

善知識と思える友達に出会えたご縁の深さを。

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備龍会講演レポ

備龍会(浄土真宗備龍会青年僧侶の会)の熱意のもと講演会が三月五日、備後教区教務所(広島県福山市)にて行われました。
講師は、テレビでもおなじみの安斎 育郎先生でした。

講題は『オカルト問題』

先生VS心霊・超能力の構図でオカルトに対する問題を述べられていました。
余り公に語れないので申しません(中傷的な表現があるため、ここではちょっと・・・先生の本を買いましょう)。また、その裏の裏のテクニック(手品・占い師講座!?)までお話くださいました。

そして、霊魂の話。仏教各宗における「霊はいるのか?」のアンケート調査には考えさせられます。どういうことかといえば、「いる」の回答から「おらん」までの幅の広い回答がかえってきたからです。

・・・ん〜、仏教講座で訪ねてみたい、、、

その幅の広さが庶民を惑わせ、色んなオカルトが広まった要因であるとおっしゃられていました。
ん〜、どうなんだろう。

TVを付けてみてもオカルト思考の強い番組は多いです。確かに、、、
僕も見ていて超常なもの・非科学的なことには、「凄いぃー」とか「何でーっ」て喰らいついてしまいます。面白いですよね、実際。
漫画もオカルト多いですよね・・・好きですが。

でも、気をつけないと危ういです。(こういう所にも思考の洗脳の影があるのかぁ、、、)

概要はこれぐらいにして(僕のまとめでは誤解がありますのでw)、後は本を読みましょうw(リンクの中に著作紹介あり)

でも、どうしても・・・一つ感動したお話として、

科学的な輪廻転生の話をしてくださいました。

人間の身体は主に炭素が構成されていて、人が死んで火葬されると、炭素は大気にいきわたります。地球の大気に満遍なく広がった場合には、どの場所で採取しても、1リットルの大気の中に1万数千個のその人の炭素が含まれるそうです。
つまり、その炭素を吸いもするし、炭素がまた人に限らずあらゆる生物を構成するために生まれ変わるのだそうです。輪廻転生ということは起きているってことなんです。

だから、私の体にアインシュタインや夏目漱石の炭素が含まれているかもって思うと・・・スゲー!
まてよ、同じ炭素を皆、共有してるってこともいえるなぁ。差別って何だ?同じ炭素共有しとるのに・・・。とか色んなことを思う。



講演は非常に面白く、
また違った角度から物事をみたように思う。
自分自身の思考・・・大丈夫かなぁw

勉強せねば、そんな想いにもかられる講演でした。
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