メリシャカQ&A メンバー編3
- 2012年04月14日(土) 文:kenyou
- お坊さんに質問(メンバー編)
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皆さま4月8日は、メリシャカデイはどのように過ごされましたか?
私は妻と入籍をしました記念日でもあるので、法務の後、ケーキでお祝いもしました。
さて、ビッグなゲストの後で、ちょっと恐縮ですが、私も気になったご質問へ回答させていただきたいと思います。
たくさんご質問をいただいた中で、「輪廻」や「死後」に関する疑問がいくつかありましたので、まとめて回答をさせていただきました。少し長くなりましたが、よろしくお付き合いいただけたらと思います。
PN なし
輪廻について教えてください
PN ブツゾーン さん
死んだら人の魂はどうなるのでしょうか?
PN よーちん さん
ひとだまを見たことはありますか?正座をしていて足はしびれないんですか?死んだら自分の心はどうなるんですか?
PN にゃにゃ さん
今年16年間飼っていた猫が死にました。ネコにもたましいはありますか? たましいがあるとしたら今、どこにいるのでしょうか?
PN JUN さん
浄土真宗の中で最後に目指す形は何ですか? 極楽浄土?禅的な自分の中の神ですか?
さてまず「輪廻」ということですが、元々はお釈迦さまが生まれる前からインドで古くからあった考え方です。これは「カースト」という身分制度と深く結びついており、今のいのちは、過去のいのち(前世)の影響を受けているものである。前世で悪い行いをしていれば、低いカーストや人間以外の生物に、善い行いをしていれば高いカーストに生まれる。というような考え方をされていました。これは、一つの生命が、また別の一つの生命に生まれ変わるというような輪廻の考え方です。
お釈迦さまも、その「輪廻」の考え方を基本的には踏襲しておられます。というよりも、当時のインドではそれが当たり前の考え方でありました。しかしその「輪廻」という思想に立ちながら、その「輪廻」というサイクルは、例え身分が低かろうが高かろうが、苦しみの世界を経巡(へめぐ)ることには変りない、「輪廻」自体が苦であると見ていかれ、その苦のサイクルから離れること、すなわち「解脱(げだつ)」ということを目指すのが、仏教の基本的な考え方の一つであります。
しかし、生命のサイクルのようなシステムが実際にあると仮定して、そこから解放されることは、果たしてでき得ることなのでしょうか。おそらくそれは不可能であろうかと思います。ではお釈迦さまのおっしゃる「解脱」とはどういうことなのか。それは、当時のインドに定着していた「輪廻」という概念から離れる、ということではないかなと思います。
なぜそう言えるかと申しますと、仏教の基本的な考え方に「諸法無我」というものがあるからです。「諸法」とは、一切の物事を意味します。そして「無我」とは、我々がイメージするような、「私」を「私」たらしめている不変の要素、「魂」のようなものはない、という考え方です。
それまでのインドにおける「輪廻」は「個」から「個」へといのちが生まれ変わる、という考え方でした。これが成り立つためには、その媒介となる物、「魂」と呼ばれるような不変の何かがなければ、生まれ変わりという現象は成り立ちません。しかし、お釈迦さまはそのような不変の何かがあることはない、とおっしゃいます。これはつまり、当時のインドにあった「輪廻」を、ある意味否定するような考え方です。
ただ、お釈迦さまは「輪廻という現象はない」というように否定されているわけではありません。「無我」を説きながら、「輪廻」を否定せず、しかもその概念から離れる「解脱」を一つの目標とする。これは一見矛盾しています。
ではお釈迦さまはどのようなことを考えられていたのか。おそらく、「輪廻」という概念を、別の捉え方をされたのではないでしょうか。それまでの「個」から「個」という生まれ変わりのシステムは、「諸法無我」である以上は成り立ちません。しかし「輪廻」というものをもっと広く捉えていかれたのだと思います。
例えば、私という人間が死んだとしましょう。その死体を火葬すれば骨と煙となります。煙は空気に溶けこみ、呼吸する生命の中へと取り入れられていきます。骨はやがて分解され土に還ります。そしてそれが植物を育み、それを動物が食べることで、その肉体へと形を変えてゆきます。私という一個の「いのち」が、死を通すことによって、バラバラになって様々な生命へと変化し広がってゆく。このような生命全体にわたるような連続・連鎖を「輪廻」として捉えられていかれたのではないでしょうか。そしてこの新しい「輪廻」は物質的な変化・拡散だけではなく、行為による影響力の連鎖、ということも考えられていたと思います。私が生きている間に行った行為は、どの行為も、何らかの影響力を伴います。その影響力は、自分自身の未来にも影響を与えますし、自分の周囲の人にも影響を及ぼします。その力は、私が死ぬことで終わるわけではなく、間接的にではありますが、未来永劫に伝播していくと考えられます。例えば私が子どもを成せば、子どもを成したことによって広がる未来があるのであり、子を成さなければ、子を成さなかったことで広がる未来が生じてきます。
このように、物質的な変化・拡散と、行為の影響力の拡散、これも広い意味での「輪廻」ととらえる。この場合の「輪廻」には「魂」のような「個」を成立させる不変の要素は必要ありませんし、「個」から「個」という生命のサイクルからも離れた考え方になります。つまり、旧来の「輪廻」の概念から離れて、新しい「輪廻」のあり方こそが真実であると体得できたとき、それこそが「解脱」である、ということなのではないでしょうか。
仏教というのは、人間が根源的に抱える「苦」からの完全なる解放、「解脱」を説く教えです。その状態に達したことを「仏」と成る、といいます。お釈迦さまは、あらゆる「苦」の元となる煩悩と呼ばれる心を克服し、「解脱」を達成し、「仏」と成られました。その状態が、仏教徒の一つの目指すべき目標です。浄土真宗におきましても、最終的な目標は「仏」となることです。極楽浄土とは、私が「仏」と成ることのできる世界のことであり、極楽浄土が最終的な目的地ではありません。そして「仏」になることは、同時に「慈悲」の心に目覚めることでもあります。自身の「苦」が解決したとき、今度は「慈悲」の心から、あらゆる生命を救わずにおれないとはたらくのが、「仏」という存在であります。その存在というのも、一つの生命体、というわけではなく、今回見てきましたように、あらゆる生命の中に溶けこんでいったはたらき、それが「仏」なのではないでしょうか。
そのような立場に立てば、亡くなった猫は、その猫の「たましい」としてどこかに在るのではなくて、私にもあなたのところにも、その猫がおってくれたというはたらきが届いているのではないかなと思います。
ただし、今回私が書きましたようなことが絶対の真実であるかどうかは、わかりません。証明のしようがないからです。しかし、私のいのちが、死を通すことによって、今度は無限に広がる生命の中へと受け取られていくと考えましたときに、私の人生は決して無駄になっていかないという世界が開かれてくるとしたら、一つの安心を得て生きていけるように思います。
あるお坊さんが、私の祖父が亡くなった時、「受けとめる 大地のありて 椿咲く」、「受けとめる 大地のありて 椿落つ」という二つの詩を紹介してくださいました。私という人間は、椿の花のように、いつこのいのちを終えるかわかりません。けれども、受けとめてくれる大地のようなはたらきがあって、私は安心していのちを咲かせ、そしていのちを終えていくことができるのだと受け取っております。
死後というもの、輪廻というものを考えるとき、いろいろな可能性や考え方ができるかと思いますが、私の抱える苦を取り除き、安心を届けてくれる仏教の教えを、私はいただいていきたいです。
以上、四つの質問にまとめての回答をしてみました。まだ疑問が晴れない部分もあるかもしれませんが、なにかあれば、またメリシャカにご質問いただければと思います。
最後に、網羅できなかったご質問に答えて終わりにさせていただきます。
「ひとだま」ですが、私は見たことはありません。
正座による足のしびれですが、正直しびれます。長時間の正座でしびれすぎると、足が立たなくなったりもします。正座のコツは「我慢すること」らしいですよ。





