CAFE DE SHINRAN 熊本店 OPEN

以前、築地本願寺に境内内にオープンした「CAFE DE SHINRAN」のことが話題になった。

築地駅近く、さらには築地本願寺境内内でのカフェということで常に予約をしなければいけないという人気店に。わたしも何度が食事をしたが、天然素材を大事にした手が込んだ料理おいしかったですよ。しかし、そのカフェも今年の6月をもって期間満了で終了しました。

↓(築地本願寺での内覧式の様子です。)





http://www.sotokoto.net/lohasbar/


なんと、そのCAFE DE SHINRAN が熊本県にOPENしました。

http://www.howdy.co.jp/dining-express/index.php?ID=2101

さらに、お洒落に。

一食の価値ありです、熊本に立ち寄った際にはお立ち寄り下さい。


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狙うコピー

最近、仏教青年なるものの冊子制作に携わるようになりました。私は、ゲイジュツ系にはめっぽう疎い方なんですが、やってみると楽しいものです。そこで色々悩むのが、特集記事などを決定づけるコピーです。2年ほど前、京都に行った時のことですが、宿泊した旅館のフロントに雑誌が置いてあったので、暇つぶしに手に取ろうとした時のことです。表紙のコピーに『やっぱりお寺は素敵なところでした。(若干違うかも)』という文字を発見。「やっぱり」という言葉はスゴい。京都とお寺というありがちな関係をさらに突っ込んで、よく知っているお寺のレア情報なんかがあるんじゃないかと思って開いちゃいますよね。コピーの醍醐味ってこんな感じだと思います。コピーライターさんの仕事ってきっと楽しいんでしょうね。
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アノニマスケイプ こんにちは二十世紀


「アノニマスケイプ こんにちは二十世紀」細川文昌写真、著 平成写真文庫 ?1429+税

もし、あなたが道端などで屍を発見したとする。
あなたは…知らぬふりか、警察か消防に通報するかどちらかの選択をするだろう。しかしこの後どうなるかと言うことをご存じだろうか?知ってる?お坊さん達?
このあと、詳細に屍は調べ上げられ、身元のわかる人は関係者の元に返される。
が、そうでない人、身元がわからない人。どうなると思いますか?

そういう人を「行旅死亡人」(こうりょしぼうにん)と呼び、1900年に施行された『行旅病人及行旅死亡人取扱法』により、行旅死亡人の死亡場所、日時、特徴は地方自治体の公務員により克明に記録され、公告として官報などに掲載される。100年以上経った今でも実施されている。

この本は1901年〜2000年までの20世紀の間そんな行き倒れて亡くなった人々の最期の場所の写真(著者は写真家で、撮影。)と、それを淡々と記録した公務員達の言葉のコピーが淡々と並列に記載されている本である。

写真の風景だけ見るとたわいもない穏やかな日常の風景なのだが、記録を読むとその風景が一変してみえてしまう。日常に潜む狂気を感じざるを得ない。たとえ100年の時を超えた、行旅死亡人最期の場所ですら…何もない日常の恐ろしさ。
無名の死人はそこで一体何を見て死んだのか?何を感じて死んだのか?それを解くひもは残っていない。あるのはただただ日常。仏教的にどうのこうの言えないのでもどかしいのだけどw、読まれた際には何かを感じていただけたらと思う。
フィリップモリスの2002年アート・アワード:ザ・ファースト・ムーブ大賞作品

なお、本書はあまり書店では売られていない。いや、ほとんど大きな流通に乗っていないと言ってもいいだろう。こんなに良書だというのに…#
流通がほとんどNet上であるので、ご購入されたい方は写真のamazonのページに入られ、マーケットプレイスで出版社が直接売っていますので、そちらか、直接出版社にお尋ねください。パラフィン紙のカバーもいい感じです。
平成写真文庫
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盛者必衰の理




でもメリシャカはある。
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結婚ラッシュの波に乗り切れていない。

花の独身キッスィです。三十路超えて花なんて言ってる場合ではありません・・・。リアルに崖っぷちのキッスィです。
最初に言っておきます。結婚観というより、愚痴です。



ここ数年、もうそれはそれは結婚・出産ラッシュ。
年賀状に「家族増えました」とか「二人になって初めての正月です」。

正直、もう見飽きました(関係者の方ごめんね)。

4月から披露宴5つ、結婚パーティ2つ。お祝い貧乏とは僕のことです。これからもあといくつかある予定。



で、まわりが結婚していくのを見ながら、「人は人。僕は僕。結婚したい時が適齢期。」と言ってはいろんなところからツッコミにのらりくらりとかわしてます。
この前なんて、母親から「ずっと京都いるのにまったくものにならないんではねぇ・・・」なんてイヤミ言われましたよ。さくっとスルーしましたけどね。





「諦」はあきらめる=明らかに見る。るるさんも書いてますが、それは僕も同じ。ただ、独身の僕は相手に対してとか、子供に対してとかではない。今の自分に対して・・・。

ほぼ結婚は諦めかけている。モテナイことが明らかに見えてくる。そんな現実。

今は好きな時に好きなものを食べて、飲みに行きたい時に飲みに行く。
そんなことをしている僕には自由がなくなり、制限されることが全く想像つかないんです。

おそらく、おそらくですよ。その制限されることが幸せだったり、楽しさ・安らぎを感じれる、そんな相手だったら結婚したいはずなんです。
でもまだそのような方に出会ってないから、結婚なんてのはな、墓場なんだ。我慢と試練の日々なんだ。と決めつけてしまっているんでしょうな。

人間てのは1つの側面からしか見ることができない悲しい生き物ですね。その代表がこのキッスィかもしれません。
こんなこと言っておきながら深層心理では結婚したがってるはずです。結婚に無関心というよりは「墓場でしょ」とか言って反発してますから。
反発ということは、それがいつしかさらに180度反発して結婚サイコーてことにもなる可能性も秘めているわけです。

ま、それはいつになることやら。





この場を借りて誤りたいことがあります。結婚間近だったFくん。結婚が近いとはつゆ知らず「結婚ってさー、人生の墓場でしょ!」と言ってドン引きさせたらしいですね。

あれはホンマごめんなさい。反省してます。
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このあたり


タグにもメリシャカ…って書いてあるはず。
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結婚観 byるる

としさんからお題をいただきました。

私の結婚観。
結婚生活って、諦めていくことだと思っています。

私が今暮らしている人と結婚しようと思ったのは、「この人とだったらいろんなことを諦めていける」と思ったからです。
諦めるというのは、もちろん仏教的な意味合いの「真実を明らかにありのままに見る」という意味です。


そもそも、結婚願望、私にもあまりありませんでした。

どんなに好きで結婚しても、いがみあったり憎みあったりする。
家族ってなに?結婚ってなに?
愛ってなに?生きるってなに?

そんな青春時代を送ったからかも〜。
まぁ、今思えば、それも単なる思春期のはかない悩みだったんですけどね。笑。

そんなこんなで、生きていく上で日々変わっていく物事、気持ちだって移り変わるものなんだということを知ってる人との関係が非常に心地よかったわけです。


愛とは、煩悩である!!と言いきる私が、「いつまでも気持ちは変わらずラブラブでいようね」と言っちゃう人とは、一緒にいられません。苦笑。

「そんなヤツだと思わなかった!」と言われると「いつまでも認識が変わらないアンタが悪いんじゃん!」とタンカを切る私ですし。

「・・・変わったよね」とか湿っぽくなられると、「当たり前やろ!」とあきれてしまったりとか。
やだ〜性格わる〜い、とか思った?おほほ。


ま、いろいろ変わっていくだろうけど、それがどんな風に変わるか、またどんな風に変えるか、一緒に見つめて行ったら楽しいだろうね。
結婚した人とは、そういう共通の認識があったと思います。
いや、だからと言って、ラブラブの期間がなかったわけではないですよ、念のため。笑。


しかしまぁ、子どもが生まれたので、また大きな変化が起こっています。
子ども中心の生活、と一言ですまされるようなことではありません。
女性は特に、価値観・考え方が一変します。劇的な変化だと思います。

なかなかその変化は男性にはわかりづらいですから、ついていくのは至難の業だと思われます。
なので、この期間の夫婦のあり方は、今後の生活に大きな影響を与えそうな気がします。

大事なことは、「夫婦は、所詮他人である」ということを忘れないこと。
全部、分かり合えるわけないんです。
お互い、それぞれの環境で仕事をしたり育児をしたり、物を見たり聞いたり考えたりします。
朝思っていたことと、夕方思っていたことは違ったりします。

だから、言葉が必要です。説明も必要。
自分の思いを言葉にして伝えることや聞くことが、とても大事なことです。
その時にはちょっとテクニックも必要かもしれません。
誉める、認める、理解できるポイントまで掘り下げていく。

その中で、相手のことを知り、理解し、共有できていくのでしょう。
と同時に、自分のことも伝えることができます。
そうしていくうち、お互いが歩み寄れるところと、立ち入ってはいけないところが分かってくる。
相手のことを自分とは別の人格として、尊重できるようになる…

諦めるということ=真実をありのままに見る とは、そういうことなんじゃないかな。

私は結婚して4年。今はまだまだその作業の途中です。
これから生活の環境が変わるたび、また局面はでてくるかなー。
でも、私たちはどんな風に変わっていくか、楽しみだな、と思ってます。

以上。
いやー、真面目に語ってしまいました。
夢を壊したかしら?大丈夫かしら?笑。


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『平等ゲーム』 仏教的平等とは?


織田裕二主演で映画化された『県庁の星』の著者である桂 望実さんの『平等ゲーム』幻冬舎 (2008/08刊)という小説を読んでいます。
瀬戸内海に浮かぶ「鷹の島」。そこでは島民1600人が、全員平等。職業も4年に一度ランダムに割り当てられ、食費なし、家も支給。お金が必要ないのだけど、報酬として年に島の利益となった収入を平等にお小遣いとして分配。競争もない理想的な島だが…そこにあるものは。というような内容で、格差社会と平等社会の幻想を描いたエンターテイメント小説です。

途中ですが色々と感じる事が出てきたので、仏教的にどうなのか?皆さんのご意見をお聞きしたく投稿しました。

そもそもこの小説における平等とはシステム的な平等で、ある意味社会主義的。
仏教における平等というのは人はそれぞれ、「個」を見ていると個人的には解釈しています。

そう考えると、ちょっと平等という切り口が違うような気もしますが、この本から感じるのはシステムから見た平等は社会生活(生産)上「個」を捨てる事。当てはまるのかどうかはわかりませんが、「自他一如(じたいちによ)」、命はつながっている、人間もちつもたれつといったところでしょうか?

しかし「個」とは究極的に考えたとき、「煩悩」であり、煩悩には分別があって、分別がある限り平等はなし。煩悩は悟りを得るためにはそれは業となる。そして煩悩を捨てるという行為は、悟りに近づくことであるからして、システム的な平等も最終的には悟りという単純な結論になり、仏教における平等というのは人それぞれの個を見ているという解釈と矛盾が起こるわけです。

まとまりの無い文で申し訳ないです。
私は決して二元論者ではないので、ダブルスタンダードは否定しない立場です。
それよりもこの質問を兼ねた書評?を書いているところで着地点が見えなくなってきました(文章もw)。

ついてこれているでしょうか?w本は読むチャンスがあればお勧めします。
そして仏教的に平等とは一体どういうことなのか?教えていただけると幸いです。
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雪駄@本願寺。


お寺の本山ともなるとこれだけの雪駄が一度に見れます!!
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ゴンシキ日記9時間目

7/13
日曜日。この日はお晨朝当番ではないけど、一般参拝者としてお晨朝にお参り。
その後、岐阜県までお参りのお手伝いに行くためだ。ちょうど起きる時間がそんなに変わらないから、どうせならお晨朝出てから電車乗って行こうと思って・・・。

お晨朝当番は各班が交替で毎日行っている。この日も出勤しているゴンシキの受講生がいた。
後ろの方から見てたんだけど、緊張感が伝わってくる。ちゃんと正座から立ち上がることができるだろうか。結婚もしてないのにオヤゴコロのような気持ちになった。

お衣をつけて出勤していると、中でお勤めしている人たちはみんな同じに見える。
自分たちはあくまで研修を受けている身。
でも。
参拝者から見ると同じ出勤している僧侶。

そのことをちゃんと肝に銘じておかないと、と思った。

同じことでも見方を変えると見えてくることもあるんやなぁ。


夕方、長井さん(ミャンマーで軍によって射殺されたジャーナリスト。みなさん覚えています??)のことを通して戦争について考えるシンポジウムがあったんだけど、疲れて出席できず。
中心になって活動しているのは、浄土宗西山禅林寺派の僧侶である岸野さんという方。長井さんの撮影したネガはミャンマー軍がまだ持っていて、それを返してもらおうということも併せて活動しておられる。
週末には京都の街中で署名活動もしてはって、とっても頭の下がる方。岸野さんは僧侶兼ジャーナリストだけに、何かをしないと!という衝動にかられるんだろうね。





7/15 7/16 7/17 7/18
この時期になると、どれもまとめの講義になる。

ということは・・・終わりも近い。ということは・・・修了試験も近い。ということは・・・もう少しで日程もあとわずか。

何でもそうだけど、終わりが見えるとしんどいと思えることでも、なんかイトオシクなる。

まとめの講義はこれまで行ったものの復習だけでなく、各お経を拝読するときの心持ちや作法などのことも改めて聞く。
ゴンシキは読むだけでいいのではなく、その読む姿勢、作法、その経典の意味を考えながら拝読して初めて「拝読する」と言えるんだろうね。

三日間の休みののち、修了試験。この三日間をどう過ごすかがポイントだろう。とりあえずはゆっくり寝たい。






7/22
試験一日目。実唱試験は今までの中間試験と同じパターンで行われる。
この日は声明と筆記。
声明はこの日記にはあんまり書かなかったけど、これが曲者。一番節の上り下がりが激しくて大変な分野。前の日記でも書いたけど、発声をするのに1つの文字をずっと発音して、しかも高さを変えながらってのもあって大変。

筆記はどこ出るか分らないから、まんべんなくやっとかないと・・・。

この声一つ一つで合否が決まってしまうと思うと、声が震えてくる。この緊張感を乗り越えてみんな合格していったんやね。みんなすごいわ。尊敬するわ。






7/23
試験二日目。
この日は礼讃と正信偈と御文章の試験。
昨日の声明と違って三つとも範囲が広すぎてここが出るだろう!というヤマをはれない。出そうなところはいくつかあるけど、ただ声明ほど確証がない。

緊張をどのようにして味方につけるか。ここまでくるとその方が大切な気がする。
エレクトーンを趣味でやってるんだけど、人前で演奏する時は足が震えるくらい緊張する。でも、その緊張は練習してきたという自負があれば味方になるし、練習不足なら自信のなさにつながる。

そんでもってスタートボタンを押すとあとはどうにでもなれ!くらいで思いっきり演奏するようにしている。

そして。

第一声。一呼吸おいて「あー・・・」と始める。

なんと!

しょっぱなで御文の読み間違い。経典をそのまま読むので言葉を間違えるのは致命的なミスなのである。

「す、すみません・・・最初から・・・」今回の試験で初めてやり直しをした。
やり直しはよくないとは聞く。音楽だって一度始めて、途中でやり直すって印象よくないもんね。こりゃタブン減点だな。

激凹みは必至。
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